平泉は、世界遺産にも登録されている歴史ある街。
中尊寺を初めとした見所が満載です。
でも旅行で行く場合、どうしても時間は限られます。
例えば半日しか時間が取れないとしたら?
昨年8月、僕が旅行した時を例に半日でどこまで巡れるかご紹介します。
一ノ関駅から出発
旅行したのは2017年8月3日
前日に仙台から新幹線に乗り岩手県の一ノ関に宿泊。
人生初の岩手県入りでした。
(AM7:50)
午後には次の街へ出発する予定のため、平泉を観光できる時間は半日しかありません。
そのため、朝7時50分発の東北本線に乗って平泉を目指します。
一ノ関駅はピカチュウだらけ!?
一ノ関駅から平泉駅までは7分
8時前には平泉駅に到着しました。
柳之御所遺跡に入れず
(AM8:00)
今回、平泉の街は徒歩で巡ります。
本当は、レンタサイクルを使って効率良く巡りたかったのですが・・・
でも、一番早く開店するレンタサイクル店でも8時30分まで待たなくてはいけません。
これでは、せっかく早く平泉に到着したのに時間がもったいない!
ということで早速、最初の目的地である柳之御所遺跡を目指します。
柳之御所
奥州藤原氏初代清衡が江刺郡豊田館(奥州市)から磐井郡平泉に移ってきて居館をかまえた所であり、3代秀衡が政庁・平泉館とするため再整備を行ったとされる。 中尊寺の南東に位置し、柳之御所から北西方山上の金色堂を望むように造営された。
柳之御所遺跡は平泉駅の改札側の反対に位置するため、東北本線の踏切を渡って歩く。
途中には伽羅之御所跡の案内があったので脇道に入ってみます。
(AM8:06)
そのまま住宅街を進むと伽羅御所跡の説明看板がありました。
周囲を見渡しても遺構は見当たらず、この説明看板だけのようです。
伽羅御所跡
この付近は、「吾妻鏡」にみえる「伽羅御所(きゃらのごしょ)」跡であります。
「無量光院の東門に一郭を構え、伽羅と号す。秀衡が常の居所なり。泰衡相継ぎて居所となせり」と、記されています。
藤原氏三代秀衡は北方の王者と言われ、兄頼朝に追われた源義経を温かく迎えます。秀衡の亡き後鎌倉の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命にそむいて義経を討ちます。しかし、鎌倉の本心は義経追討を口実にした平泉の存在そのものにありました。
文治五年八月(西暦一一八九年)、頼朝は二十八万四千騎という大軍を持って平泉を攻めます。
住む人も居なくなった平泉は、その後野火などによってさすがの栄耀を誇った堂塔伽藍も焼け失せ、八〇〇年の歳月はわずかに内堀の跡や、土塁の一角をとどめるのみであります。
元禄二年五月(西暦一六八九年、平泉の滅亡から五〇〇年にあたる)「奥の細道」を旅した芭蕉は「秀衡が跡は田野となりて」と嘆き、「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」の句を詠んだ。
平成七年四月 平泉町環境協会
(AM8:10)
さて、平泉駅から約10分ほどで柳之御所遺跡に到着しました。
しかし・・・
中に入れません。
見学時間9時から!
事前のリサーチ不足でした
広く開けた遺構が目の前にあるのですが。
事前に見学可能時間を調べておくべきでした。
せめて外から写真だけでも。
柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)
この遺跡は、平安時代末(12世紀)の居館跡で、歴史書「吾妻鏡」に記載される「平泉館」に否定され、奥州藤原氏の政務の場と考えられている。南西の低地は猫間が淵と呼ばれている。
継続的な発掘調査によって、堀・園池・掘立柱建物・便所などの遺構、京都や海外との交流を示す土器や陶磁器などの遺物が多数発見されている。
わが国の北方領域に展開した政治・行政上の拠点を示す遺存状態の良好な遺跡として、平泉の文化遺産の中でもとくに重要である。
高館義経堂
気を取り直して、次は高館義経堂(たかだちぎけいどう)へ
(AM8:30)
約15分ほどで到着です。
拝観時間は8時30分からなので、今度は時間を合わせました。
源義経 最期の地 です。
8月に入り暑さ盛りの季節ですが、さすがに岩手まで来ると暑さはやわらいでいます。
歩いていても汗が流れ出ることもありません。
義経堂は階段を上り高台にあります。
高台からは雄大な北上川が見えます。
この川の向こうとこちらでは地質がまるで違い、それも金が産出される理由だそうです。
壇ノ浦で源義経が平家に勝利したのが1185年。
その僅か4年後である1189年に遠くこの平泉で自刃。
後に松尾芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」と自然と人事の対比を詠むことになります。
中尊寺
高館義経堂をあとにして、中尊寺を目指します。
(AM9:00)
中尊寺の入り口である月見坂までが約10分です。
世界遺産に登録されている平泉ですが、その中でも中尊寺は代表的な史跡です。
月見坂の入り口から
いきなり急な坂道が始まります。
(AM9:15)
途中の弁慶堂です。
由緒
この堂は通称 辨慶堂という
文政九年の再建である。
藤原時代五方鎮守のための火伏の神として本尊勝軍地蔵を杞愛宕宮と称した傍に義経公と辨慶の木像を安置す
辨慶像は文治五年四月高館落城と共に主君のため最後まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり更に宝物を陳列
国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある
代表的鎌倉彫である
脇には解体された鳥居が置かれています。
更に坂道を進みます。
道は整えられているものの結構な傾斜が続きます。
(AM09:25)
本堂にたどり着きました。
本堂にある梵鐘は、康永二年(1343年)に鋳造されたものです。
岩手県指定文化財
梵鐘
康永二年(一三四三)に金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。
撞座は長い歳月にわたる打鐘で窪み、現在この鐘が撞かれることはない。鐘身の銘文には建武四年(一三三七)山上の堂塔が火災により焼失したと記し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える資料としても貴重である。
径八六センチメートル
中尊寺金色堂
さて、いよいよ金色堂
奥州藤原氏が栄華を誇っていた12世紀。繁栄を支えていたものの一つが金。
それを象徴する建物が中尊寺の金色堂です。
(AM9:35)
向こうに見える覆堂の中に、金色堂が建っています。
金色堂は約10分間ほど使って拝観しました。
なお金色堂は撮影禁止です。
中尊寺の金色堂は一面の金箔に螺鈿細工・蒔絵が施されています。
しかし派手さは無く落ち着いた佇まいですという印象を持ちました。
平安時代末期という時代の雰囲気を反映しているのかもしれません。
松尾芭蕉も句を残しています。
芭蕉翁句碑
五月雨の 降り残してや 光堂
(AM9:50)
金色堂を出ると、その先に旧覆堂があります。
昭和38年(1963年)に現在の覆堂が建築されるまでは、こちらの覆堂の中に金色堂がありました。
現在この旧覆堂は金色堂から少し離れた敷地に移築されています。
この旧覆堂は内部です。
これで金色堂を風雨から守っていたのですね。
さて中尊寺を下山し、次は毛越寺方面に向かいます。
(続く)
アラウンド47
このときが岩手県へ初訪問でした。
47都道府県の中の42番目を達成です。
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