やっちゃえ!オッサン よしのケンジです。
日本全都道府県を巡るアラウンド47に取り組んでいます。
5月のゴールデンウィーク明けの週末。
高速道路も空いている渋滞知らずタイミング。
東京からちょっと足を伸ばして山梨へスキマ旅です。
今回は戦国武田氏の歴史を辿るをテーマに、甲府市の武田神社にやってきました。
武田神社〔甲府市)
(2019年5月、ゴールデンウィークの翌週)
武田神社は甲府駅の北口から真っ直ぐ北(やや北東寄り)に進むとたどり着きます。
その道は通称「武田通り」
武田家臣の武家屋敷があった通りです。
現在の地図と比べても形跡を見て取ることができますね。
地図で見ると平坦に道が続いているように見えますが、実際は武田神社に向けて登って行くなだらかな坂道。
その坂の様子は、武田神社の鳥居をくぐり境内から振り返って見ると良く分かります。
甲府市を一望にできる扇状地の要の狭まった地形なのです。
そのような場所に武田神社が建っているのは、この場所の歴史に理由があります。
武田神社の由緒
武田神社ですが、創建は大正時代と比較的新しいものです。
でもこの場所は、武田信玄こと武田晴信を御祭神として居館であった躑躅ケ崎館の跡なんです。
つまり、武田氏が甲府を支配する本拠地としていた場所だったということ。
そのような歴史も踏まえてこの武田神社に立つと、城ではなく館と言葉から浮かぶイメージとは違って、地形的にも構造的にも堅牢であったことが想像できます。
武田神社境内
さあ武田神社の境内に入りましょう。
敷地内はこのような感じです。
前方と左右に堀が廻らされています。
神社の後方の山は要害山。
大手門は東側に配されていたようです。
なお、車で参拝するときには神社の西側に2箇所、駐車場が用意されています。
今回は第二駐車場に止めたのですが、細い道を通るため通行は気を付けましょう。
駐車場からは、南アルプスの山並みが見えました。
拝殿が建っているのは、東中曲輪の位置です。
令和への改元直後だったため、奉祝の幟が掲げられていました。
お参りの後は、橋を渡り西曲輪の方へ移動しました。
木の生い茂る森になっています。
少し北に歩くと、石積みの遺構がありました。
ここは、北側枡形虎口の跡です。
しかし、この石垣は武田氏滅亡語に設けられた物ということ。
しかし、武田氏築城時の構造を見て取ることができます。
武田氏館跡西曲輪北側枡形虎口
西曲輪は、武田信玄の長男であった武田義信とスルガの今川義元の娘との結婚に合わせて天文20年(1551)に心臓された芳信の居館です。(省略)
現状では、武田氏滅亡後に石がキア設けられていますが、枡形虎口は、武田氏の築城技術を代表する構造とされています。
曲輪(くるわ):堀・土塁で囲まれた屋敷地
甲府市教育委員会 ※下線は筆者
枡形虎口は敵の侵入の勢いを削ぎ、枡形の中に滞った敵を土塁の上から攻撃できる防御地点になります。
北側枡形虎口の先にある堀を越えると、その先の山まで続くなだらかな傾斜地が広がっていました。
武田神社
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戦国武田氏の歴史を辿る旅を続けます。
さあ、次の目的地へと進みましょう。
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