やっちゃえ!オッサン よしのケンジです。
日本全都道府県を巡るアラウンド47に取り組んでいます。
5月のゴールデンウィーク明けの週末。
高速道路も空いている渋滞知らずタイミング。
東京からちょっと足を伸ばして山梨へスキマ旅です。
今回は戦国武田氏の歴史を辿るをテーマに、甲府市の甲斐善光寺にやってきました。
甲斐善光寺〔甲府市)
(2019年5月、ゴールデンウィーク翌週)
善光寺と言えば、長野の信濃善光寺が有名ですが、ここ甲斐善光寺も信濃善光寺と縁があります。
甲斐善光寺は、武田信玄が川中島の戦いによって信濃善光寺が焼失するのを恐れて、永楽元年(1558年)に遷したのが始まりです。
武田氏の滅亡まで、御本尊善光寺如来も鎮座されていたという歴史があります。
山門
山門から見ていきましょう。
無料駐車場が、参道脇に用意されています。
山門へは少し南側に戻る形で向かいます。
立派な朱塗り白壁の山門、200年以上前に建てられたもの。
国指定文化財とされています。
この甲斐善光寺は宝暦四年(1754年)に門前の失火により、一度焼失しています。
しかし、寛政四年(1766年)に山門が再建されました。
(国指定文化財 建造物)
善光寺山門付棟札
指定年月日 昭和三十年六月二十二日
所在地甲府市善光寺三丁目三十六番一号
所有者 善光寺
五間三戸の楼門で、入母屋造の構造を示すこの山門は、江戸時代中頃の宝暦四(一七五四)年の大火により、本堂とともに焼失したが、本堂に先立って再建され、明和四(一七六六)年に上棟式がおこなわれた。
両脇に仁王像を安置し、二階部分は、手すり付きの板廊下がめぐらされ、内部には仏像が置かれている。巨大な朱塗の丸柱と白壁、銅板葺の屋根などからかもし出される雰囲気は、本堂の壮大な建築によく調和した山門ということができる。
昭和六十三年三月
甲府市教育委員会
山門の両脇には、阿形吽形の仁王像
さあ、山門の向こうに見える金堂へと進みましょう。
お咳婆さんの石
参道を進んでいると、右脇に腰の高さほどの石が置かれていました。
「お咳婆さんの石」だそうです、
お咳婆さんの石
この大きな石は「お咳ばあさんの石」と呼ばれています。いつの時代からか、百日咳など喉に苦しむ者が、全快したら飴を奉納する約束をして祈願すれば、効験が著しいと言われておりました。同様に信仰されてきた石は、甲府市内千塚など各所にもあるといわれております。
千塚のお咳婆さんについては、甲府市のホームページでも紹介されています。
金堂
参道を進みましょう。
かなりの大きさです。
高さ27メートル、総奥行49メートルもあります。
この規模の木造建築は東日本最大級とのこと。
金堂も江戸時代中期(寛政八年)に再建されたものです。
ここ甲斐善光寺は、浄土宗なんですね。
(ちなみに信濃善光寺は無宗派として有名)
堂内に入り拝観しましょう。
金堂の幕の中央に武田菱、その両脇に徳川三つ葉葵が並んで描かれているのが興味深いですね。
これは創建が武田氏、そして徳川家の位牌所になっていたという歴史によるものだからでしょうか。
金堂では、鳴き龍とお戒壇廻りを体験できます。
鳴き龍
天井に描かれた巨大な龍のしたで手を叩くと「きゅおんきゅおん」と独特の反響します。
お戒壇廻り
金堂の下に降りていく階段を進みます。
全く光の届かない真っ暗闇を進む。
手で伝う壁だけが進む方向の頼り。
視覚を全部奪われたような状態。
本当に不安になるほど。
途中にある錠前を手探りで探す。
ちょっと普段に無い非日常を体験できます。
善光寺銅鐘
金堂の脇には、善光寺銅鐘があります。
この銅鐘は、武田信玄によって信濃善光寺から移されたものだそうです。
山梨県指定有形文化財・工芸
善光寺銅鐘
所在地 甲府市善光寺町二六六九
所有者 善光寺
指定年月日 昭和五十四年二月八日
本銅鐘は、正和二年(一三一三)に補鋳されたことが銘によってわかる。治承三年(一一七九)と文永四年(一二六七)の善光寺火災の折、火をうけて、その都度修理されている。
鐘の周囲は四つに区分され、八葉複弁(蓮の花)を刻んだ撞座があり、鐘乳は、総計一〇〇個つくられている。鐘の肩の部分は大変力強く、鎌倉時代の風格を表しており、美術的価値の高い遺品である。なお本鐘は、武田信玄によって長野市善光寺より、本尊その他とともに写されたものである。
総高 二〇〇センチ
口径(内側)一三五.二センチ
正和六十年
山梨県教育委員会
甲府市教育委員会
次の目的地へ
戦国武田氏の歴史を辿る旅を続けます。
さあ、次の目的地へと進みましょう。
コメント